マスコミ語録

メディアに掲載された石原伸晃関連記事を以下よりご覧頂けます。

週刊朝日
1999年10月1日号

『父』石原慎太郎
伸晃議員初めて語る(下)
都知事選1975〜1999
「石原家の闘い」全内幕


「国のことをするために東京のことをする。」
4月11日、都知事当選のあいさつをする石原慎太郎氏
(写真中央)と妻・典子さん(同右)、伸晃氏(同左)。

この四半世紀、石原ファミリーにとっては、四年にー度の都知事選がメーンイベントだった。美濃部氏に惜敗したあの日から二十四年。父・慎太郎氏(66)の揺れる心情、選挙戦の裏側を振り返る長男・伸晃氏(42)は、いつしか政治を志した原点、幼いころの父の記憶をたどる。

親父にとって東京都知事は、四半世妃の間、抱き続けた夢だった。
二十四年前の「美濃部対石原」。高校三年生の僕は、外郭団体の手伝いだったが、初めて親父の選挙にどっぶりとかかわった。
最終日の新宿駅西口は人、人、人で埋まっていた。両陣営が最後の訴えの場で激突。大日本愛国党の赤尾敏さんの車が乗り込んできて、両陣営を分ける。「川中島」ってこんな戦いだったのかなあ −そんなことを思いながら、呆然と人の波を眺めていた。
街宣車には三木武夫総理と中曽根康弘幹事長。総理が、「石原裕次郎君をよろしく」 と締めくくったのにはまいったが、当初から、「男には負けるとわかっていても、戦わなきゃならないときがある」 と言っていた親父は、サバサバしていた。
以来、都知事選は石原ファミリーにとって、四年に一回、オリンピックのように巡ってくる恒例行事となった。
都知事選を翌春に控えた秋になると、まず支持者が、 「先生、今度こそ出たはうがいいよ」「大統領ならなれても総理は無理だ。知事は今度出たら絶対勝てる」 と焚きつけ、そのうち党内でも名前が挙がる。そんなとき親父はこうつぶやくのだ。
「都知事はやってみたいよなあ」
でも都知事選は、時の政治情勢、政党の枠組み、顔ぶれ、タイミングなどが複雑に絡み合う。チャンスはありそうでなかなかないものだ。鈴木俊一都政になってからも、小沢一郎幹事長が破村尚徳きんを担いで分裂選挙になったときも、親父には、なんで鈴木なんだ、なぜ磯村なのか、という思いがあったはずだ。
前回の1995年。今度こそ親父は絶対出馬する − 告示前日までそう信じていた。
当時も幹事長は森喜朗さん。親父が清和会(現森派)にいたこともあり、かなり早い段階で、「そのときは頼む」との要請が内々に来ていた。河野洋平総裁からも人を介して、
「石原信雄さん(元宮房副長官)が出ないときは頼む」という話があった。信雄さんに決まってからも親父は迷う。信雄さんは優れた人物だが、一般の知名度は低いし、絵に描いた自公の枠組み優先候補だ。そして青島幸男さんが出馬表明した日、「親父も無所属で出るに違いない」と僕は確信した。青島さんと親父は、直木貨作家と芥川賞作家で参院当選同期。常に意識する存在だったからね。
「出ない」
と、議員会館で聞いたのは告示前日。
「どうして」
「党に迷惑をかけるからだ」
やりたいようにやってきた“自由人”も、長年党にいる間に、組織への忠誠心とか帰属意識が身についたのだろうか、と意外だった。
ところが、青島当選の五日後、親父は議員勤続二十五周年表者の衆院本会議で、
「日本は去勢された宦官のような国家になり果てている」 と刺激的な言葉を残して突然、議員辞職を表明する。僕は今でも、知事選での党の対応に対する抗議も込めた辞職だったと思っている。
「俺をなめんなよ」って。

「親父は24年かけて、政治家として働くべき場所にたどり着いたのだと思う」と語る伸晃氏
もちろん、党や今の政治への不満、無力感は積もりに積もっていた。94年に親父は「二十一世紀への橋」と題する党の政策大網案を書いた。過去の自民党政治を反省し、憲法、安保、税制などでの根本的な発想転換を説く、親父の思いが詰まったこのビジョンを、執行部は与党になったとたんに棚上げしてしまう。
「野党のときは頼む頼むと作らせておいて、与党になったらもとの自民党に逆戻りだ」
そんな耕父の憤りを何度聞いたことか。僕は、
「任期は務めたはうがいい」と説得してみたものの、
「俺の美学だ」
と言われてはお手上げだ。

父は一人で遊説
孤立無援の演出

あれから四年。今回も早々に名前が浮上したが、「またか」と思うだけだった。
「お父さんもいろいろ考えてるみたいだから、つきあってあげて」おふくろに言われて、久々に親父とゴルフをしたのは2月6日のことだ。
「青島不出馬でだれが優位だ」
ゴルフの後、いつも立ち寄る自由が丘の料理屋のカウンターで、親父が切り出した。
「親父が出れば断然優位さ」
「そうか、そうか」
根拠はなかったのだが、親父は嬉しそうにうなずいた。
3月8日の夜、親父は赤坂の全日空ホテルに側近を集めて宣言した。
「やるぞ」
それでも僕は半信半擬だった。前回の例もあるし、この人は一晩で「やっぱりやめた」と言いだしかねない。
去年もひどい目にあった。
「五月の連休は沖縄にいるから家族で来い」
言いだしたら聞かない人だ。先輩議員との約束をキャンセルし、かみさんと娘を連れて飛んだ。ところがホテルに着くと、フロントの人がけげんな顔をしている。
「石原さまは、昨日お帰りになりましたが」
ご丁寧にも、僕らの部屋までキャンセルして帰ってしまったのだ。リゾート地のホテルはどこも満杯。電話をかけまくり、那覇市内のホテルをやっと見つけた。電話で文句を言うと、
「体の調子が悪いんだからしょうがないだろ。君らだけで楽しんでくればいい」
ひどいでしょ。そんな人だから、告示前日に「やめた」と言いだしても不思議はない。僕ひとり、内心ハラハラしていた。
名実ともに無所属の選挙は初めてだ。組織もなく準備もほとんどしていなかった分、選挙戦略は単純だった。演出家の浅利慶太さんがプロデュースしてくれた24年前と違い、今回は「政治家石原慎太郎」も「作家石原慎太郎」もできあがっているからシナリオはいらない。「孤立無援の戦い」をアピールすることが唯一の作戦だった。
中盤までは、親父は山手と多摩、「石原軍団」は下町と二手に分かれた。親父のほうは勝手連の都議や区議の司会者だけ。親父は演説場所の近くで車を降りて歩きで登場。街宣車の上は常に一人だ。寂しがり屋の親父は、「こっちにもだれか来てよ」と訴えるのだが、選挙を仕切った石原プロの小林正彦専務に一蹴された。
「だめだめ。あんたは一人でお客を呼べるけど、こっちは何人かいないとお客が集まらないんだから」
僕は、渡哲也さんや舘ひろしさん、裕次郎夫人のまき子おばさんら軍団と同行した。局地戦での威力は絶大だ。飾りだけのタレント応援とは違う「石原組」は、下町気質に合うらしい。どこでも熱烈歓迎だった。24年前は体を壊していて応援できなかった渡さんは、「俺はやるよ」と気合十分。叔母も「裕さんに言われてるから」と、声をからしてくれた。
新宿の選挙事務所は「新聞を見て来ました」というボランティアであふれた。学生、主婦のはか、休みをとって手伝ってくれるサラリーマンやOLもいて、その数は200人に膨れ上がった。立正佼成会、霊友会、仏所護念会など「親石原」の宗教団体もフル回転してくれた。

「裕さん来たな」
叔しげだった父

75年、42歳の慎太郎氏(上)は都内を駆け回ったが惨敗。24年後、悠然と立候補し圧勝した(下)
それでも全体情勢は見えないものだ。衆院選と違い、広いし無党派層が多く、票が読めない。どんな足し算をしても百万票に遠く及ばない。しかも、出馬表明時がピークの支持率を、どこで歩留まりきせるかの「守りの選挙」。怖いのはアクシデント、失言、トラブルだった。
24年前は親父も40代だし、政権党の候補にはSP(セキュリティーポリス)もつくから、傍若無人に走り回れた。その点、無所属候補は切ない。警護はないし、公選法の適用も厳しい。街頭ではチンビラふう、パンチパーマのお兄さんが術宣車の真ん前で寝そべり、映画で見るヒットマンそっくりのサングラスの男の人がいや〜な距離でにらんでいる。緊迫度満点だ。邪魔が入るかもしれないとの情報があれば即演説中止。活動量を抑え、スタッフの目が届く範朗に限定した。おまけに、自民党関係者もかかわっていたと思われる低レベルの怪文書にまで悩まされた。
だから、親父の街頭遊説は一日たったの三ヵ所。
「楽させてもらって悪いけど、もっとできるぞ」
と、本人がばやいたはどだ。それだけに候補者本人は元気いっぱい。選挙中も一日十時間は寝ていたんだろう。
そのぶん、神経を使う周りは大変だ。実は僕自身、選挙中に急性肺炎にかかってしまった。みぞれに濡れたとき、放っておいたのがいけなかった。せきと39度の高熱に悩まされ、診察したら片肺が真っ白だった。医者がこっそり入院先を探してくれたのはよかったが、小林専務から、
「士気が落ちるからだめ」 と非情な宣告を受け、点滴と注射でしのいだ。
僕だけじゃない。最終日の打ち上げで、「まだ話し足りない」と不満げな親父に、スタッフからは、「もう勘弁して・・・」と悲鳴が上がった。

最後の訴えは数寄屋橋だった。雨がポツポツきた。
「やっぱり来たよ。裕さんが」
と、叔母が言う。叔父に雨はつきものだ。渡さんも、
「先代がいるよ」
みんなの表情が和らいだ。
「裕さん、来たな」空を見上げてつぶやいた親父だけは寂しげに見えた。きっと、兄弟にしかわからない感慨があるのだろう。
どの予測も「石原優勢」だった。しかし、得票総数の四分の一を超えず再選挙になる可能性も十分あった。再選挙になれは票の行方は全く読めないし、長期戦は物量のある組織政党が有利だ。我が方はバテバテ。だから、選挙事務所で「当確」を聞いたときは、本当に本当にほっとした。ところが、肝心の本人はちっとも嬉しそうじゃない。
記者に怒ったりしている。僕は後ろから「スマイル、スマイル」 「もっと優しく」と声をかけたのだが、あんな当選者は前代未聞だろう。
でも、二人っきりになると、ポロッと漏らした。
「えらい仕事を引き受けることになった」
財政など都の内情を調べれば調べるはど、生半可じゃない厳しさが露になり、とても喜んではいられなかったのだ。
僕にとっては過去を振り返る選挙でもあった。ある日、胸に日の丸のついた白いブレザー姿のおじいさんが、地方から事務所を訪ねてきた。
「最初にお父きんを応援したときに着たんですよ」
親父が初当選した68年の参院全国区選挙のときのユニホームだ。そういえば、僕が政治家という職業を初めて意識したのは、あのときの親父の姿を見たときだったっけ。
政治家になる前の石原慎太郎は近寄りがたい存在だった。「たまに家に来る人」だし、食事も子どもとは一緒にとらない。石原家の家族旅行のメンバーは、四人の兄弟と祖母、おふくろ、お手伝いさん。そこに親父はいない。
鮮烈に覚えている親父の姿がある。新聞社の依頼でベトナム停戦取材に行った親父は、肝炎を患って帰ってきた。寝たきりの親父を、マスク姿のおふくろが看病する日が半年も続いた。小学四年で好奇心旺盛だった僕は、ときどきおそるおそる親父の枕もとに座った。
「お前と同じくらいのベトコンの子が、爆弾を抱えて米軍基地に突っ込んできた。国家のことなんてわからない。父親だけを信じていたんだろう。その子は俺の目の前で撃たれて死んだよ」髭はばうばう、頬がこけた土色の顔。目だけをぎらつかせた親父の話には、すごみがあった。
「知的レベルの高い仏領インドシナが崩壊する。うかうかしていると日本も危ない」
親父はこの体験を機に政治家に転ずる。いま思えば、僕にとってもあの日々が、国や政治を考える原点だったような気がする。
もうすぐ親父の67回目の誕生日がやってくる。四兄弟とその妻子、叔母も加えた石原ファミリーが顔をそろえ、イタメシ屋で祝う計画だ。家族だけで集まるのは十数年ぶり。あんなに怖かった親父も、いつの間にか二人の孫をもつおじいちゃんだ。でも、「枯れる」気配はもちろんない。
親父の書斎の机には、ヘミングウェーの写真が飾ってある。『老人と海』が特に好きだ。いま、体力、精神力の限りを尽くして大魚を仕留めた老漁師と、自らの姿を重ね合わせているのかもしれない。

構成 本誌・木之本敬介

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