マスコミ語録

メディアに掲載された石原伸晃関連記事を以下よりご覧頂けます。

週刊朝日
1999年9月24日号

『父』 石原慎太郎
伸晃議員初めて語る(上)
都知事がかました役人への一喝

4月11日、都知事選当選が決まっても
厳しい表情を崩さない父・憤太郎氏(左)を、息子・伸晃氏が和ませた

石原慎太郎・東京都知事(66)誕生から五ヵ月。助走期間は終わり、これから真の実行力が問われる。長男の伸晃代議士(42)は、孤独な知事のよき相談相手だ。都の現状、役人に対する驚き、怒り、苦悩、そして喜びを知事室で日々語り合う。伸晃氏が初めて「父」を語った。

親父が都知事になってからというもの、親子の会話の場は、もっぱら昼休みの知事室になった。
なぜ昼休みなのか。 都知事っていうのは、半端じゃなく忙しい。朝は九時から夜まで、会議、来客、式典出席、ブリーフイング・・・・・・と二十〜三十分単位でびっしり続く。僕が会える時間、つまり親父が自由になる時間は、この正午からの一時間しかないのだ。
少なくとも週一回、七月までは週三回も通った。僕は都知事選で自民党の方針に反して親父の選対本部長になった。息子としては当然と思うが、その咎で「蟄居閉門」を命じられ、党本部にも行けない。国会議員になってこんなに時間があるのは初めてだったから、暇つぶしじゃないけれど、足繁く知事室に通うことになったというわけだ。
それにしても、あの巨大な建物に僕はまだ慣れない。
「とんでもねえところだろ。ここは」
「国会や首相官邸がちゃちく見えるよね」
「ここに大理石の風呂ができるはずだったんだ。なに考えてたのかね。まったく」
初めて入った知事室での会話は、たしかこんな感じだった。日々、国会議事堂や霞が関の官庁に出入りしている国会議員の感覚でも、とてつもなくでかくて贅沢。あれから四十回近く通ったけど、違和感はまだ拭えない。
「ギーッ」と音を立てる重い鉄扉の奥、もう一つドアを開けると知事室だ。二フロアぶち抜きだけに天井が高い。左手に十人掛けの楕円形のミーティングテーブル。机も椅子も重厚なイタリア製だが、座り心地は悪く、実用的ではない。右奥に豪華な応接セットがあり右手前には布製のチープな感じのついたて。お世辞にも趣味がいいとはいえないきらびやかな部屋の中で、こいつだけ浮いた存在だ。その奥の執務机から、ついたてに妙にマッチしたジャンパー姿の親父が出迎える。
「おう、来たか」
親父は昔からネクタイが嫌いだ。でも、いくらなんでもあのジャンパーはダサい。僕の支持者のおばさんたちは、
「かっこ悪いわ」
「イメージ狂っちゃうからやめるように言ってよ」
と、さんざん。そこでデザイナーズブランドのブルゾンをプレゼントしたんだけど、ちっとも着てくれない。よほど気に入っているんだろう。
ソフトバンクの孫正義社長を紹介した日も「これがユニホームだから」ってわざわざスーツから着替えたくらい。孫さんも、のけぞっていた。
古くからの友人の孫さんには親父へのパソコン指南をお願いした。親父は新しモノ好きで、二十年も昔、ワープロという“新兵器”が世に出始めたころには、百万円もする巨大な機械がわが家に存在したほどだ。今でもキーボードは速く打つが、年のせいかパソコンだけは受け付けない。
「インターネットはこらから大事なんだから」
何度言っても聞く耳を持たない親父を“インターネットの帝王”に口説いてもらう作戦だ。
「私の父もはまってます。知事、次回来たときは五分でインターネットのとりこにしてみせますよ」
さすが帝王。楽しみだ。
ところで、都庁はシティーホテルに囲まれているし、議会棟地下のレストラン街にはそこそこうまい、そば屋やトンカツ屋もあるのだが、親父は昼飯も知事室ですます。問題は、庁内の食堂から届く定食の味だ。あの国会の議員会館の食堂と比べても、ひどいレベル。「今日はあそこのそばを食うぞ」「明日あの店だ」と周りに有無を言わせぬ食い道楽の親父だが、「今日は中華定食か。うーん。まずいな・・・・・・」と、ぶつぶつ言いつつ我慢している。
ありがたいことに、僕もごちそうになる。気を使って、うな重をとってくれたこともあったが親父はその日も食堂のうどんすすっていた。

冗談じゃない!
そんなカネない

もちろん 親父嘆きは昼飯だけじゃない。ある日、僕の顔を見るなり、
「俺は買わねえぞ。お前の選挙区にある銀行の運動場だよ。この役所は、俺に断りもなく独断専行で物事を進めようとするんだ。全然チェックが利かない」
と、いきりたっている。
何のことかただすと − 都は青島知事時代の三月、練馬区にある住友銀行運動場の半分を約四十七億円で購入。さらに六月に残り半分と杉並区の富士銀行運動場も買う計画だった。公的資金導入に件う銀行のリストラ策の一環だ。
この追加購入の際、
「知事、こういうことでよろしくお願いします。」
担当幹部は詳しい説明もせず当然のように了解を求めててきたというのだ。いくらなんでも百億円単位の財政支出だ。親父はキレた。
「どういう話だ。詳細に説明してくれ」「えっ」
幹部はびっくりした様子。
「えっ、じゃないだろ。冗談じゃない。契約書も覚書もないのか。こんなやり方は民間では考えられない。だいたい、そんなカネが今の都のどこにあるんだ!」
「担当者に確認してきます。」
幹部は慌てて退散したそうだ。結局、親父は購入凍結を決めた。ちなみに杉並区は僕の選挙区だったが、初耳だった。
「これまでの知事はそのまま判をついていたんだろうな。
こんな話が個々の役人レベルで決まってたんだぜ。あきれたもんだ。きっと氷山の一角だろう。ここは知事にもわからないことが多すぎる。」
親父は大臣もやったし 役所のシステムを知らないわけじゃないが、東京都はやはり特別なところのようだ。
ただ役人の接し方は中央省庁とはちょっと違う。数ヵ月で代わる大臣はドライな関係でもすむが、知事は嫌でも四年はつきあわなきゃならないからか。親父の言葉では
「したたかでウェット」
最近は細かいことまでご注進に来るようになったようだ。その結果、親父の仕事はどんどん増えているんだが。

親父は根っからの自由人だ。好きなときに好きなものを食べ、海が恋しくなれば油壺マリーナに直行し、ヨットを操る。決まった時間に席につくサラリーマン的生活は大の苦手。国会議員にはこの手の人種が多いのだが、行政の長はそうはいかない。朝、席でハンコをつかないと市民生活は滞るのだ。親父がそんな生活を続けているのは驚きだ。
しかも張り切りようは大変なものだ。性格的に細かいことは好きじゃないのだが、知事になってからは政策の細部にまで耳を傾け、勉強している。債券市場、教育改革、交通流入規制など公約で打ち出した政策を手始めに、
「俺はせっかちだから、どんどんやる」
「息切れしちゃうよ」
と忠告しても、アイデアが次々に出てくるみたい。
「親父さん、勉強も大事だけれど横田基地返還とかの政策に共感して投票してくれた人は少ないんじゃない?頑固親父とか、父権復活とか、強いリーダーのイメージに投票した人が多いんだと思うよ。」
とも言ってみたけど
「この役所は指示さえすればそのとおりに動く。俺が言ったことが、しばらくすると具体化されて出てくるんだぜ」
いつものことだが聞いちゃいない。だんだんおもしろくなってきたようだ。
先日、都職員の給与大幅カットを発表した。全国の自治体で最も厳しい内容に、労組はさっそく反対を表明した。
「労組との調整はしたの?」
「いや、まったくしてないよ。でも、このご時世になんで反対するんだ」
とつぶやいていた。ちょっと張り切りすぎが心配だ。
国政への関心も衰えてはいない。自自公連立に怒った立正佼成会や新宗連(新日本宗教団体連合会)から僕ら国会議員に届いた“踏み絵”のアンケートを見せると
「そりや怒るよ。これまで一生懸命、自民党を支え、創価学会と対抗してきたんだ。国会にいると そのへんの感覚が鈍くなるんだよな」
と解説した。小渕総理についてはこうだ。
「ああいう政権は長く続くよ。ドイツのコール政権も最初は人気がなかったが ノラクラ続いた。つかみどころがなくて攻めにくいからな」

都庁「奥の院」の厚いフィルター

この五ヶ月、苦労したのは都庁の敷居の高さだ。知事に用があると僕に頼んでくる人が多いが、息子だって急には連絡が取れない。メモすらなかなか届かない。ホットラインがほしいくらいだ。
こんなこともあった。
「午後に電話をくれるよう、お父さんに伝えてくれ」
本会議場で僕を呼び止めたのは野中官房長官だ。特別減税の還元率の件で親父が頼みごとをしていたらしい。 知事室に電話すると女性が出た。
「いま会議中です。小一時間かかります。」
次にかけると
「いま別の会議に入りました」
こっちも子どもの使いじゃない。
「官房長官からのメッセージを伝えなきゃならないんだけと」と言うと あちこち電話を回されたあげく、男性の秘書が「何のご用でしょうか」だって。
「官房長官からのメッセージが伝わらないということでよろしいですね」 「えっ、ちょっと待ってください」
また待たされて、ようやく本人が電話口に出た。
「いまお客さんだけど、なんだ」「さっきからかけてるのに、お宅の役所はどうなってんの」「俺は聞いてねえよ」
七月に西村誠・都歯科医師会会長の面談を申し込んだら、「八月末に時間が取れました。」孫さんみたいな民間人だと、正規のルートで申し込んだら永遠に会えないのでは、と思うほどだ。大臣は秘だが 知事には分厚いフィルターがかけられる。
親父が夏休みに伊豆七島にヨットクルーズに行ったときも、連絡に苦労した。都知事が「奥の院」にいては都民の感覚がわからなくなるし、緊急のときもまずい。親父には繰り返し言っているが、簡単には変わりそうにないな。
僕個人の話では、僕が加藤紘一さんと意見が合うことがおもしろくないみたいだ。
「お前、ほんとに加藤のところに行くのか。なんで亀井のところに行かないんだ」
先日、宏池会(加藤派)に入ったのだが、親父はやっぱり中曽根(康弘)さん、亀井(静香)さん、平沼(赳夫)さんなんだな。思想的にね。
「まあ いろいろあるから」
肌合いだから論理的に説明するのは難しい。中曽根さんや親父の主張が間違いだとは思わないが、お先棒を担いだり、御輿を担いだりはできない。僕はジャーナリズムの世界から政界に入ったからか、親父とは感覚が違う。むしろ今の総保守化傾向に恐怖を抱いている。国旗・国歌法の賛成四○三票は、いままででいちばん怖い投票結果だった。最近の憲法論議もそうだ。ナショナリズムや愛国心は必要だと思うけど 全員でどんどん行っちゃっていいのか。

びっくり仰天の親父が昔は「左」

その親父も昔は「左」だったそうだ。学生のときは共産党の信奉者で、親父の勧誘でマルキシズムの研究会に入った人が今でも党本部で働いている、と共産党の議員が教えてくれた。これにはびっくり仰天した。あの時代のインチリはみんな左翼だったから不思議じゃないが、故・渡辺美智雄さんらとの「青嵐会」のイメーンが強烈だからね。
知事になって、親父が出来なくなったこともある。
「小説は書けないね」
「いや、俺は書くよ」
と強がっていたが、難しいだろうな。もう山中湖の山小屋に三週間もこもるような生活はできない。休みがとれたとしても秘書が迎えに来て東京にトンボ返り。そんな中で『弟』は書けない。物書きは観念の世界で、政治家はリアリティーの世界。近いようで遠い裏表の関係だ。そもそも一人で両方やるのは矛盾しているんだと思う。
車の運転も諦めた。大の車好きの親父も議員の間はいっさい運転しなかったのだが、辞職したあと、三十五年前から逗子の家にあったモーガンのオープンカーを引っぱり出して乗り始めたんだ。ベレー帽をかぶって遠出するんだけど、年だから片道で疲れちゃう。去年も山中湖に行ったはいいが帰りは運転できず、石原プロの人が迎えに行った。まったく迷惑な話だよね。
そんな親父も知事を四年やったら七十歳。かわいそうに、もう運転できないな。いや、それでもトライするかな、あの人のことだから。

(以下次号)
構成 本誌・木之本敬介

いしはら・のぶてる
1957年生まれ。慶大卒。日本テレビ記者を経て、90年総選挙で衆議院議員に初当選。東京8区(杉並区)選出、3期目。「政策新人類」と呼ばれる若手政策通の一人で、金融問題で活躍した。石原家4兄弟の長男。

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