マスコミ語録

メディアに掲載された石原伸晃関連記事を以下よりご覧頂けます。

「国鉄総裁辞任へ」の特ダネが
翌日一点、針のムシロの心境に

アエラ臨時増刊号
No9 3/1号 定価600円
文・樋田敦子 写真・会田法行

最初に配属になったのは?

スポーツ局です。ニュースやボクシングの中継に携わりました。プロ野球解説者だった長嶋茂雄さんの迎えも僕の仕事でした。初めてミスターのご自宅を訪ねたとき、「お兄ちゃん、そんなに緊張しなくていいんだよ」と肩をボンボンと叩かれたことを覚えています。僕にとって、長嶋さんは子供のころからのあこがれで、神様みたいな人。ガチガチだったんですよ。

日本テレビには、8年ちょっとの勤務でしたね。

僕らが若かったころは、会社をたくさん渡り歩いていることが評価されない時代でした。会社側にも10年をかけて、給料を払い、社員として人間として育てている意識が強かった。だから、育ててもらっている10年間はがんばろうと思ったんです。

大学では都市社会学専攻のゼミにいて、仲間にマスコミ志望が多くいました。僕も映像でモノを作りたい、これからはテレビの時代だと思っていたので、マスコミ志望者が通う予備校に半年間通いました。作文や四字熟語、英語……。筆記テストで足切りがあり、パスしないと面接にも臨めない。小学校の塾以来、熱くなりましたね。

結局、テレビと広告会社など5社を受け、日本テレビに内定。人間の極限状態である戦争を掘り続けたカメラマンの沢田教一やロバート・キャパに興味があって、いつかはドキュメンタリーを作りたい、そう思っていたのですが、1年目は、すでに話したとおりスポーツ局に配属されました。2年目からは報道局に移り、サツ回り(警察取材)や政治・経済を担当しました。警視庁の記者クラブに泊まって、年を越したこともあります。父親の知り合いが多くてどこでもかわいがってはもらいましたが、やりづらかった面もあったなあ。

一番苦しかったのは、1985年の国鉄民営化取材で、「仁杉巌国鉄総裁が辞任へ」とニュースで打ったときです。特ダネだ、局長賞モノだなと二ンマリして翌日の記者会見に行ったら、仁杉氏本人が「そういう報道がありますが、私は辞めません」と言うんです。上司からは「どうなっているんだ」と責められ、あのときは針のむしろの心境でしたね。

そして、会社を辞めようと思ったのは、長期政権になるだろうと言われていた竹下登政権が崩壊した89年ですね。政権の誕生から辞任までをつぶさに取材していて、これからは政治も激動の時代がやってくる、自分にも何かできるのではないか、と思ったんです。

若かったのでテレビ局の退社を決意するまでに時間はかかりませんでしたが、地盤も何もないところから立候補しようと思ったので、当選までの1年はつらかったですね。

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