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自由民主
平成19年12月11日号
私のサラリーマン時代
「事実の裏に隠された真実」を追った記者時代
日本テレビ放送網
株式会社
昭和五十六年に慶應義塾大学文学部を卒業して日本テレビに入社し、以来十年近く、大蔵省、外務省、総理宮邸などを担当しました。
といっても、政治家へのステップとして政治部の記者になったわけではありません。学生時代からメディア志望でした。メディアの世界でものをつくりたい、クリエーティブな仕事をしたいという思いがあり、テレビ局を中心に受験して日本テレビに入社が決まりました。
私が入杜した年は東京オリンピック以来の大量採用で同期が約三十人いました。新人研修は一カ月かけて行われ、社会部や運動部、ドラマ、編成などと、すべての現場に出してもらい、いろいろな経験をさせられました。
最初に配属されたのは運動部でした。プロ野球の読売ジヤイアンツ担当として試合前と終了後に当時の藤田元司監督や選手を取材したり、中継の手伝いなどもしました。
ジャイアンツの宮崎キャンプにも同行取材し、ナマのミスター(長嶋茂雄氏)とお話ししたり、一緒にうどんを食べたことなどが今でも印象に残っています。私たちの世代は「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代ですから、王貞治さん、長嶋さんは子供のころからのあこがれの存在でした。
中日ドラゴンズも当時、宮崎県串間市でキャンプをしていましたので取材に行きましたが、同じキャンプでも巨人、中日とそれぞれ球団のカラーがあって面白く感じたのを覚えています。今の原辰徳監督を藤田氏がドラフトのくじで引き当てた時も現場で取材していました。次に配属されたのは社会部でした。最初の一年間は口―カルニュースの企画ものを任され、毎日三、四分の企画ものを制作していました。その後、国鉄の分割民営化間題を抱えていた当時の運輸省などを担当しました。
正月を警視庁で迎えたこともあります。殺人事件が多発し、東京の五反田で起きた誘拐事件の時には、無事解決したものの、二週間泊まり込みになり、本当に疲れました。 警視庁の記者クラブでは原稿を書く机の上に布団を敷いて寝ていました。
当時、「疑惑の銃弾」という週刊誌の連載が大きな関心を集めました。テレビのワイドショーでも「ロス疑惑」として取り上げられて、私も単身で米国ロサンゼルスに飛び、砂漠の中の新興住宅街のようなところで一カ月間単独取材して回りました。当初は何で週刊誌の後追いをしなければいけないんだ、という思いもありましたが、あれよあれよという間に大事件になっていました。週刊誌を持って現場をウロウロしたのはあれが最初で最後です。
入社して五年ほどで政治部に配属となり、竹下番として竹下登内閣の誕生から崩壊までをつぶさに見ることができました。総裁選挙の時、一万人の聴衆を前に竹下先生が全身を震わせながら演説する姿を、ツバが飛んでくるほどの間近で取材しました。竹下先生の小柄な身体に天下取りのエネルギーがあふれている姿に感動しました。
党内最大派閥を率い、十年は続くのではないか、といわれた竹下内閣はあっ気なく崩壊しました。辞任の記者会見の場にもいました。この次は間違いないだろうといわれていた安倍晋太郎先生が病気になられたり、幹事長代理だった橋本龍太郎先生が幹事長に就任したのを目の当たりにして、「今、日本はドラスチックに動いているなぁ」と感じました。こういうときは動乱の時代だから若い者にもチャンスがあるのではないか。「私にも何かできるかもしれない」と現場にいて強く思い、小学生以来の政治家になるという目標が具体性を帯びてきました。
父(石原慎太郎東京都知事)が国会議員を辞めるとは思ってもいませんから、妻が生まれた東京・杉並区をわが選挙区と思い定めました。三カ月ぐらい街を歩き、立候補を決め、平成元年に日本テレビを退社しました。
記者時代に「事実の裏に隠された真実を探すのがわれわれの仕事だ」と格好いいことをいう先輩がいました。その人から事実と真実とは違うのだと教わりました。
政治の世界はいわれていることと本当のことが違う社会です。事実として表れていることの裏には何があるんだろうという気持ちを絶えず持ってものを見られるのは、十年弱の記者時代の経験が非常な大きなプラスになっていると思います。

