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忘れられない母の味 第二十回
衆議院議員 石原伸晃
親父が食べてたビフテキがうらやましくて…
週刊女性 2007年7月17日号

“お米アレルギー”で超病弱児。母親は小学校4年生の夏休みから突然、勉強が終わるまで寝かせてくれない“教育ママ”に変身して
7歳のころまでは、昭和初期に建てられた、古い日本家屋に住んでいました。神奈川県の葉山と逗子の間の北斜面にある平屋で、日が当たらなくてねえ。ダークなイメージでした。
横須賀育ちの母親は18歳で24歳の親父と結婚。花嫁修業を積む前にお嫁に来ているので、料理とかを教えたのは、私のおばあちゃん。それに当時は、家に3人もお手伝いさんがいましたから。住み込みで僕ら子供たちを育てる乳母の仕事を母親がわりな感じでやってたんです。
ですから、僕が幼いころ、母親が台所に立っている姿を見た記憶がありませんね。
■「うちには独特の食事の風習がありましてね」と伸晃さん。

夕食が二部制だったんです。親父とおばあちゃんのための一部と、子供たちのための二部に分かれてた。母親は、次男の良純、三男の延高、そして確か、一番下の弟の延啓(のぶひろ)がまだ小さかったころまでは、二部のほうだった。
二部は、5時30分か6時ごろから食べ始める。一部は、その後。一部と二部とでは、食事の内容が違うんです。早く一部に上がりたかったなあ。だって、ビフテキは一部にしか出ないんだもん。
ある時、母が鉄板焼きの鉄板を買ってきた。今はどこにでもあるけど、当時は珍しくてねえ。ガスの上で焼くステーキの匂いを嗅ぎながら、(僕もたべたいなあ)と思ってましたね。
叔父さん(裕次郎)が来るときは、決まってステーキなんですね。でも叔父さんは、すぐには食べないで、帰るころになると、「おい、もう1回焼いてくれ」というんです。(1回焼いたステーキをまた焼いて、そんなにおいしいのかなあ?)て子供心に思ってましたよね。
■幼いころの伸晃さんには、ある弱点があった。
弟たちは、がんがんご飯を食べてたんですけど、僕だけは食べなかった。食パンを食べてたんで、みんなは「ご飯が、嫌いなんだな」としか思ってなかったんじゃないかな。
お米アレルギーだったんです。食べると発疹が出た。僕の子供も同じ体質だったから、1粒から始めて、2、3粒と増やして馴染ませていったっんですね。2粒で発疹ができるとやめて、また2粒から始めるみたいな方法で、10粒が食べられるようになった時は「万歳!」しましたよ。
当時は今みたいにアレルギーがポピュラーじゃないから、何がアレルギーかの検査もないし、食べ物を工夫して治すみたいなこともなくてね。小学校の健康診断書に「アレルギー」とだけ書いてあったのは覚えてる。でも、(それって何なんだ?)と。弟たちとは違うわけですよ。僕だけ鮫肌。(なんで僕だけ、こんなに手がガサガサなんだろう)と思ってましたね。
■「それに超病弱でした」(伸晃さん)
幼稚園から小学校1年生までは、扁桃腺を腫らしては、よく休んでいた。家で寝ている時は、本を読んでいました。ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』『海底2万マイル』などSF冒険小説シリーズを1巻づつ買って来てもらう。あっという間に、本棚に全25巻が並んだということは、相当に寝込んでいるわけですよねえ。
そんな僕が小学校2年生の時、親も「どうして急に」とびっくりするぐらい元気になったんです。日が当たらなかった家から、太陽が当たる洋館に引っ越したのも大きかったと思いますね。ダスト(ほこり)アレルギーでもあったのが、治ったことも大きいですね。急に元気になったのもあって、お日さまが好きになって、アウトドア・スポーツを始めたんです。小学校3年からヨット。4年からはサッカーに夢中になりました。
「受け継いだ“ナスのはさみ揚げ”」
■石原家には、やはり“太陽”が似合う。“太陽の季節”を満喫していた伸晃さんだったが…
母親と急に一緒に外に出かけるようになるのは、小学4年生になってから。夏休みが終わったころでしたね。中学受験の準備を始めようと、東京、横浜、葉山など、いろんな予備校に連れて行かれた。勉強もさせられるようにもなるしね。「教育」という局面になった時に、「母親」という存在が、いきなり現れたという感じでした。
当時の子供は、遅くまでは起きていませんから。8時〜9時には、寝かされるしつけ。それが急に、12時くらいまで勉強をさせられるんですから。(なんで、こんなに勉強しなきゃいけないんだ)って。1回目の時なんか、泣きましたよ。サッカーばかりやってたわけですから。これは、もう「助けてくれ!」みたいな(苦笑)。
■「ただし土曜日だけは、テレビを見ることが許されました。子供たちは、親父の部屋に集まる。カラーテレビは、親父の部屋にしかないから(笑い)。NHK『タイムトンネル』、テレビ朝日系の『キャット』などを11時くらいまで見れた」
それ以外は母親が、夜中の12時まで、ピタッと横についているんです。とにかく、課題が終わるまで帰さないタイプですね。「眠いよお」と泣きを入れても、「やり終えるまでは、ダメ」。それまでは、乳母に育てられてたわけですから。いきなり母親の存在感を示されて、「いったい、いつどこから来たんだ!?」みたいな感じですよね(苦笑)。
ですから、当時の母親の印象は、「教育ママ」。勉強が、好きなんですよ。じゃなかったら、僕が高校生の時に大学受験なんてしないでしょう。「なんで大学なんて行くの?いい年して、みっともないじゃないかあ。俺はどういう顔して、高校行くんだよお」といいましたよ。そしたら、「いや、お母さん、大学に行けなかったから。子供が、たくさん生まれたから」といいましたね。
■「でも、僕も子供を育てた今になってわかりますけどね」と伸晃さん。

子供が可愛くない親はいないということですよ。親父にしても、子供には危険なところでスキーをやらしときながら、「雪崩には、気をつけるんだぞ」とか必ず、電話をしてきて、子供たちにアキれられてたくらい心配性でした。
そんな母親の料理で、いちばん好きだったのは、ナスにハムをはさんで揚げる「ナスのはさみ揚げ」。おばあちゃんのオリジナルだと思うんですけど、母親が受け継いだんですね。それとトマトをスライスして、フライパンで焼いて、ぐちゃぐちゃにしたらオイスターソースをかけて食べる料理。
弟たちは野菜がダメだったんですけど、僕だけは野菜が大丈夫だったんですね。ナス、トマトのほかにも、ピーマン、きゅうり、にんじん、なんでも好きだった。子供のころから、野菜サラダはよく食べていた。母親はそれを見て、僕の野菜好きに気づいてたんだと思うんです。
ふだんは叔父さんがハワイから買って来ていたドレッシングをかけていましたけど。なくなると、母親がせっせと、レモン、塩、胡椒と、サラダオイルを混ぜて。僕のために、山盛りの野菜サラダの上にかけて、食卓に出してくれてましたね。
今は、母親は親父と2人暮らし。寂しそうだから、時たま行くと、ナスのはさみ揚げを作ってくれます。そして、子供のころに(食べたいなあ)と思って見ていたステーキを焼いてくれる。もちろん野菜サラダをつけてくれます(笑い)。
(取材・文/鳥巣清典 撮影/佐藤基広)

