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文芸ポスト 季刊第22号
小学館発行 定価700円

1987年(昭和62)年の竹下政権以降、わが国には11人の総理大臣が誕生している。その内、過半数の6人が早慶出身。さて、総理にも早慶カラーがあるのか? 慶應の中学時代から振り返って、石原氏におもしろエピソードを語ってもらった。
■少林寺拳法に明け暮れた大学時代

僕は中学(普通部)から慶應に進学し、いかにも慶應っぽいと思われがちですが、大学時代(1976−81)は少林寺拳法部所属で、どちらかといえばバンカラでした。ちょうど世間ではあの「クエックエッ」で有名な漫画『嗚呼!!花の応援団』が流行っており、ほとんど同じノリ、けっこうハチャメチャな体育会系だったんです。まる一日、河原で正座させられたり、石の上でケンタテ(拳立て伏せ)をやったりしているような大学生時代でした。
日吉で土曜日に練習でランニングをしていると、テニスサークルやスキーサークルの女の子たちからは「臭いからこっちに来ないでよッ」などと虐げられたりしてました(笑)。
現在も少林寺拳法部の総監督を務めていますが、昔と違っていま風のお洒落なクラブに様変わりしました。実力も世界大会に出場するレベル。僕らの頃の「根性みせろ!」といったバンカラ気風はすっかり影をひそめたようです。余談ですが、ラグビー部・・・・慶應では“慶應義塾體育會蹴球部”というんですが、彼らのラグビーも「魂のタックル」と呼ばれるようなストイックな感じで、地獄の山中湖合宿などがあって厳しいものでしたが、今は先進的なものもたくさん取り入れて、2000年には大学日本一になっていますよね。
拳法部の同期は、当初15人いたのですが、あまりの厳しさに耐えかねて夏合宿で夜逃げしてしまうヤツも出てくる有り様で、最終的には4人になっていました。早稲田と一緒に早慶合宿というのを千葉県の岩井というところでしており、双方のOBも参加して交互に基礎体力の鍛錬をやったりするわけです。早慶交互に腹筋をやったり、スクワットをしたりする。当然、対抗意識が芽生えてきて、「もっときつく、もっともっと」方式でどんどんお互いにエスカレートしていくんです。「向こうには絶対負けるな」みたいな感覚ですね。早稲田が遅れてくると「ざまあみろ」と思いながら……。いま考えると、若気の至りといいますか、恐ろしく馬鹿なことに闘志を燃やしていたなあと(笑)。
しかし、対抗心は燃やしても、早稲田の学生が異質だなと感じたことはありませんでした。大手の広告代理店で部長をしている友人がいて、今でも仲がいいんですが、彼とは同じジャズのレコードを聴いたりしていましたし、共通の話題には事欠かなかったように思います。僕より昔の世代には、早稲田=バンカラ、慶應=モダンみたいな雰囲気がありましたが、そういうカラーはほとんど消えていたように思います。
その頃、少林寺拳法部で早慶以外に定期戦を組んでいたのが、防衛大学と拓殖大学だったのですが、拓大なんかに行くと、ほんとうに「こりゃバンカラだ」って感じがしました。国士舘大学もそういう点では超の付くバンカラだった。僕らの一期上の主将が襟丈の長い詰め襟をやめようと提案して、やめてしまいましたけどね。

通学はずっと詰め襟の学生服でした。下はチャコールグレーのズボンに白いワイシャツですから、いちいち着るものを考えなくていいし、遊びに行くときは上着を脱いでしまえば、不自然なこともなく、却って楽でした。忘れられないのは、三年か四年の頃だったかと思うんですが、当時の部の監督に連れられて赤坂にあった「ミカド」というクラブに行ったときのことです。グランドキャバレーなんて、それこそ叔父が出ていた、昔の日活アクション映画の中でしか観たことのない世界でしたから、この時はびっくり仰天しました。さすがに学生服で入れる雰囲気ではなかったですね。一階はゆったりとした席でお客さんが楽しんでいるんですけど、二階を見上げると、ホステスのお姉さん達がズラッと待機してるんです。「なんだ、ここは!」、ホントに、映画のワンシーンを観ているようで驚いたのを覚えています。
少林寺拳法部のノリがノリですから、一般に思われている慶應のお洒落な日常というのはあまりなかったですね。いわゆる合コンも、僕が幹事で三、四回ほどしかしてません。仲がよかったのは、僕と一緒に普通部から上がってきた連中ですね。あとは部の後輩。とくに僕の場合は、一期下の代を指導していたので、一番親近感がありました。今でも後輩の家へ行ったり、誰かの結婚式を口実に集まったりと付き合いが続いてますね。
こういった連中と普段飲んでいたのは、都立大学周辺が多かったですね。早稲田の人たちだと、高田馬場とか新宿あたりなんでしょうが、部の練習が日吉だったので、東横線沿線がメインになってました。よく早稲田の友だちからいいな、まぶしい感じがする、なんて言われてましたけど、僕らにはそんな意識はぜんぜんありませんでしたよ。
ちょうど僕らの時代はディスコ全盛期でしたから、六本木にもよく行きました。「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットした頃です。六本木には行きつけのスナックや居酒屋がありましたので、よく行きました。当時は5千円で飲み放題、食べ放題だったか。目一杯、身体を使ってましたから腹も減る。助かりましたね。スナック、居酒屋以外であれば、六本木の「キサナドゥ」「グリーン・グラス」。普通部から一緒だった連中とよく遊んでいました・・・・・・・・・。
この続きは、文芸ポスト第22号(小学館発行、定価700円)で

