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東京新聞
平成15年8月19日
親父の総裁選
石原伸晃が語る父・慎太郎
“オレ流”決断の自由人

「自民党は耐用年数が過ぎている。解党的改革が必要な時だ。派閥力学にそむくかもしれないが、自民党を改革せよという国民の期待にそむくものではない」。1989年8月5日、自民党総裁選に立候補した石原慎太郎は党本部での共同記者会見でこう述べ、勝算なき総裁選に挑んだ。伸晃は民放政治部記者を辞め、真夏の日差しが照りつける中、次期衆院選出馬を目指し、選挙区行脚を続ける最中だった。
「演説会の原稿を見せられた。何度も、何度も堆敲(すいこう)した跡がある手書きの原稿で、おやじの決意を感じた。緊張なんか無縁の人間に見えるけど、すごく緊張していたんだろう。おやじにとっても一世一代の大勝負だった」
直前の参院選。自民党はリクルート事件、消費税導入、農産物自由化の「三点セット」に加え、首相の宇野宗佑(故人)自身の女性問題もあって大敗を喫した。「結党以来の危機」と言われ、党の再生をかけた総裁選だった。にもかかわらず、後継選びは党内第一、第二派閥だった竹下、安倍両派が、少数派閥・河本派の海部俊樹擁立を決め、多数派が早々に形成された。
「この時は出来レースで、まさに数の論理。おやじも安倍派にいたけど、(会長の)安倍晋太郎さんが病気だったこともあって、派閥の幹部は戦わずしてポストを取りにいくみたいなことになった。でも、おやじには『それじゃ党がつぶれる』って危機意識が強かったんだろう」
派閥の論理に反旗
派閥の論理に反旗を翻した出馬。それだけに立候補に必要な20人の推薦人集めは難航した。ようやく堆薦人をそろえ、出馬表明の記者会見を開いたのは、届け出当日の5日未明だった。
「夜中に電話がかかってきた。『やっと出られることになった』って。今とは比べものにならないくらい派閥の締め付けが強かった。生きるか、死ぬかの戦いだもの。当時は中選挙区だから、『候補を立てるぞ』って脅かされる。派閥に逆らえば、カネとポスト(役職)で、完全に冷や飯を食わされた時代だった。派閥が政党みたいなものだった」
総裁選には、海部、石原のほか、主流二派閥による海部擁立に反発した宮沢派が二階堂グループの林義郎を推した。当時56歳の石原をはじめ、初めての「昭和一けた生まれ」の選挙戦だった。

「三人とも若かったね。おやじは誰の応援も受けずに(自分の衆院)選挙に勝つ自信があったから、派閥の論理に対抗できた。役職もそんなに好きじゃない。職で束縛されるのは、一番嫌いじゃないかな」
石原自身が「玉砕覚悟」と言って臨んだ総裁選。総裁の座を射止めたのは予定通り海部で、過半数の279票を獲得。石原は、林(120票)にも及ばなかったが、周囲の予想を上回る48票を得た。
「『うまくいって37、8票だろう』って言っていたから、10票以上も多くて、おやじもびっくりするくらい喜んでいた」
それから6年後、石原は「相談がある」と言って、伸晃にある演説原稿を見せた。「政党、政治家は利己的で卑しい保身のためにしか働いていない」と書かれていた。石原は95年4月の衆院本会議で、勤続25周年表彰への謝辞としてこの原稿を読み上げ、突然、議員辞職を表明した。
「事前に演説の原稿を見せてくれたのは、総裁選とこの時の二回だけ。もう何を言ってもだめだと思ったから、『分かった。好きにすればいい。でもすごい反響があると思うよ』とだけ言った。おやじはいつもオレ流で自由人。常識外の人生を歩むおやじに、母も何も言わなかった」
石原の衆院議員時代、党内の権力闘争は派閥の数の論理で決まった。いまは、小泉支持勢力を数で上回る反小泉勢力が、9月の総裁選対応に苦慮している。
「文句を言いながらも、内心は『人気があるうちはいいや』っていう議員心理もあるだろう。政策が違うという人が、堂々と出て、論戦すべきだと思う」
選挙準備に明け暮れながら、父親の総裁選を見守った伸晃もいまは当選四回。自民党内の世代交代が進めば、次の次を狙う世代でもある。
「いつかは総裁選に出て、骨太の国家像を訴えてみたい。いまは過渡期。派閥の論理でない、新しい総裁選にしていく意味で、今度の総裁選は重要だ」
