メディアに掲載された石原伸晃関連記事を以下よりご覧頂けます。

政治家の本棚
背伸びしてジイド、スタンダール
一冊の本 11月号
■インタビュー:早野 透 朝日新聞編集委員
■−神奈川県出身ですね。
石原−鎌倉生まれ、逗子で十三歳まで。パン屋さんも一軒、おもちや屋さんも一軒みたいな田舎の町でした、当時は。今でこそ海ぞいに通路がありますけど、昔は夏になると田越川に仮橋がかかって、そこから渡って海に行ってハゼ釣り、ボラ釣り。山の上のお花畑でモンシロチョウを追いかけた。今は全部住宅になっちゃいましたけど。
■−小学校は。
石原-鎌倉に通っていた、越境で。電車で一駅、あるいはバスで。生まれたところの小町という学区なんですよ。そこに籍が置いてあったんです。ストのある小学校とない小学校があつて、ストのない小学校だったんですよ、私の行っていたのは、公立でも。
■−おそらく父上慎太郎氏がそこに息子を行かせようと。しかし、そんなにストがありました?
石原-ありました。いいな、友達は休みで、なんて。
■−その小学校は特別な教育でも。
石原-そうでもないですね。ただ、課外授業が盛んで、サッカーの強い小学校だった。当時、清水と鎌倉はサッカーがさかんだった。私もサッカー少年だったんです。まだボールもゴムで重たくて。皮のボールなんていうのは、試合のときしか使わなかったんですね。
■−逗子では、父上も作家の生活という感じですな。
石原-幼稚園のころは、父親はたまに来るものだと思っていたんです。夜中に書いていましたから、ちっとも父親を見ないですからね。それを言うと、すごく気分を悪くして。
■−そのうえ、おじさんの裕次郎さんが有名な俳優。うちは何か違うなという感じがありましたか。
石原-不思議と何にも気にしてなかったんですね。ちょつと鈍かったのかな。小学校でも別け隔てなかった。父は湘南高校コースでしたが、君は中学で慶応に行ったらどうだといってくれたのは、担任の先生だったのです。
■−通うのが大変ですね。
石原-一時間ぐらいでした。しかし、中学二年で父が衆議院に出るので、東京の田園調布に越しましたので、そこからは三十分ぐらい。
■−どんな少年だったんですか。
石原-父親からサッカーの一流選手にはなれないから剣道やれと言われまして。しかし、あの汗のにおいが好きになれなくて一年でやめちゃったんです。それからテニスを二年間ぐらい、高校から大学は少林寺拳法。これが一番集中して続いたスポーツですね。
■−本も読みましたか。

石原-通学時間がありましたからね。ジイド、スタンダール、ランボー。フランス文学を読みました。男と女の世界とか、哲学的なものとか。伊藤整とか、福永武彦も好きでしたね、『草の花』。父親の蔵書を、書庫から持ってきちや読んだみたいな感じですけど。
■−ジイドというと。
石原-ポロポロになった文庫を今でも持っていますけど、堀口大学が訳した『地の糧』。緑を引いてあるのがおもしろいですね、鉛筆で。
■−それほど胸に響いた。
石原-美意識に合っていたみたいな。思春期つて、いろいろ考えること多いじゃないですか。こいつは十代でこんなこと考えているのか、さすがだな、僕もまねするんだなんて。
■−スタンダールは。
石原-「赤と黒」は難しかつたですけどね。今読み直してみようと思っても、本屋で売ってないですね。
■−最近の作家の文庫本ばかり。
石原-斜めでも、1ぺ−ジ飛ばして読んでも読めちやうみたいな本ですね。読むのに苦労する本は売れないんでしょうかね。昔はそういう本を読んだ。街に映画館があって楽しかったですね。白楽という駅に、洋画の四本立てをやる映画館があったんです。中学生だから行っちゃいけないんですけれども、図体がでかかったですから、上着を脱いで剣道の友達と。「バニシングポイント」なんかここで見たな。当時の超大作では「ワーテルロー」がよかったな。
■−裕次郎映画は。
石原-「太平洋ひとりぼっち」「栄光への五千キロ」「富士山頂」「ある兵士の賭」「黒部の太陽」は見た記憶がありますね。日比谷の映画館のロードショーに。おじなんかも出てきて。
■−慶応大学の生活は。
石原-僕は文学部社会学科ですが、江戸文学にも興味を持ちました。江戸の粋な世界、これも男女ですよね。池田弥三郎先生がまだいたんですよ。先生の最後の授業に私、出ましたから。
■−慶応の名物教授ですね。
石原-池田先生のお弟子さんの授業で西鶴を読みました。おもしろかったですよ。社会には役に立たないけど。
■−「好色一代男」ですか。
石原-ええ。なぜ男を男が好きなのか、わからなかったな。
■−そんなのありましたっけ。
石原-ええ。ホモセクシヤルみたいなのが何で社会で許容されているのか、最後までわからなかった。
■−歌舞伎とかは?
石原-歌舞伎は、大学生のとき恥かいた記憶がありますよ。笑ったら、後ろのおばあさんから「ここは悲しいところよ」って言われて。最近はいいな、イヤホンガイドがある。小泉純一郎さんが、あれを聞くとよくわかるよと。それからは格好つけずにガイドを聞く。そうすると、あっ、この表現はこうだとわかるようになる。能もわからなかったけど、これは奥深いですよね。
■−はまっちやう世界ですよね。ところで社会科学の本は。
石原-私はヒューマン・エコロジー、シカゴ学派の矢崎武夫先生に学んだんですね。なぜこういう都市ができてくるかを考える。人間の生態ですよね、町はまさに。先生は英語がベラベラ、テキストが全部英語だったのは嫌でしたね、わからなくて。何ページか、二週間置きぐらいに学生が分担して解説する。
■−おもしろそうだな。
石原-そこには民族も入ってくるし、宗教も入ってくる。一番おもしろかったのは、マイノリティのことです。そういう人たちがどういうところに住むのか。何でハーレムがニューヨークにあるんだろう、マニラのスラムは何でできるんだろうと。僕の卒論は、渋沢栄一なんですよ。田園調布をつくったでしょう。何であそこにあんな街をつくつたのか、民間人が。日比谷の図書館に閉じこもって調べた、古い本を探して。
■−伸晃さんが後に東京で選挙に立ち、父上は東京都知事になる出発点みたいな感じがしますね。
石原-何かつながっているんですね。そのときは、全然そんなことは考えませんけれども。
■−ところで少林寺拳法、あれはどういうものです?
石原-僕がやっていたころ、先代がまだ率いていたんですよ。こんなひげ生やして、二回ほど話を聞いたかな、おもしろいおじさんでね、哲学者で。今はそのお嬢さんが二代目ですけど。なぜ惹かれたか、宗教的な要素があったんです、禅みたいな精神統一。GHQの指令で武道が認可されないので、宗教法人から始まったんですよ、四国の田舎町で。高校のときは町道場に三年間通って、大学では体育会のクラブで。奥が深いんですよね。本山に行くと、指一本でぷっと人を倒してしまう先生がいます。圧法というんですけど。僕の友達がポンとやられたら、起き上がれないんですよ。えいと気合をいれられたら、起き上がれましたけどね。
■−随分変わつた世界をいろいろ見てきているんだ。
石原-オタクなんですね、結構はまっちゃうほうなんですよ。
■−政策新人類のひとつの要素はオタクっぽいところだな。あの金融再生問題の取り組みに通じているな。で、少林寺拳法はあんまり汗臭くなかった?
石原-汗臭いんですけど、お面とかがないでしょう。剣道は全部プロテクトしますので、においがしみ込むんですよ。しかしまた、橋本龍太郎さんが小学校のときに入っていた大義塾という名門の剣道塾の会長を引き受けています。
■−フランス文学、西鶴、少林寺拳法。何か共通のところがあるな。
石原-メジャーじゃないんだな、わりとマイノリティーに関心があった。背伸びなんですよ、フランス文学を読むのもみんな。そういう仲間がいましたよね、おれはこれ読んだよ、君読んでる? とかいうのが。うちは漫画は読ませてもらえなかったんですよ、父親の教育で。これは大きかったな。
■−父上は国会議員になって、生活のスタイルが違ったでしょう。
石原-女性の秘書がうちに来たりしましてね。ああ、きれいな人だな、何しているんだろう、この人はって。
■−ご自身の政治への志は。
石原-目覚めは小学校なんですよ。田舎の町で、選挙ポスターを貼ったベニヤがくいに一枚ずつ、市会議員選挙でも何でも並んでいるわけですよ。この候補はよさそうだとか、通るとか通らないとか、四、五年生のころ、言って歩いていた。何でそんなこと言っていたのか、今でもわからないですけど。
この人はいいと思った人がいたんですよ、市会議員で。その人は後に逗子市長になったですよ。僕、その方のところに言いに行きました。初めて市会議員に出たときのポスターがなぜかすごく印衆に残ったと。そのあと、あの人に負けちやつたけど、富野さんに。
■−就職は日本テレビでしたね。
石原-テレビも当時は4、6チャンネルの二強時代と言われていた。僕のときは、たまたま東京オリンピック以来の大量採用で三十四人採ったんです。だから、入れたんだと思うんですけど。入って一年間、運動部でジャイアンツにくっついていました。藤田監督時代です。原を引き当てたドラフトは取材に行きましたからね。箱の内側にその紙が張り付けてあったなんてうわさがありました。日本テレビはどろ臭かったんですわ。TBSはちょっとスノッブだったの。
それから社会部に移って警視庁に。昔はトレンチコートの似合う、かっこいい記者がいましたね。三浦和義事件があったんです。おまえは英語できるからと言われて、ロスに二カ月、一人で行きましたよ。LAPD(ロス市警)の広報官とは親友になりました。もうアリゾナでリタイアしてますけど。そのころはプレゼント攻勢で、ゴルフが好きだというとみんなゴルフクラブ持っていきました。僕もドライバーを一本。僕は大誤報もやっているんです。これがカズミさんを撃った銃ですとか衛星中継でしゃべったら、全然違っていた。(笑)部長は、おもしろかったけど始末書を書けと。
■−それからは。
石原-運輸省を三年ぐらい担当しましたかね。国鉄の分割・民営化を最後まで追いかけたんです。仁杉総裁がやめるというニュースも打ったんですよ。翌日九時から記者会見だと言われて、はら、やったと言ったら、私はやめませんて記者会見されて、これも誤報です。一カ月後の辞任まで針のむしろでした。
■−中曽根政権ですね。じや石原運輸大臣のときは。
石原-首相官邸に移ってました。
■−政治家になろうと思ったのはそのころですか。
石原-竹下登さんが一万人ぐらいの集会で、何言っているかわからなかったけど、体を揺すりながら大演説したのを取材にいきました。あんな身動きができないなかでメモしたのは初めてですね。政治が活力があったんですね、それだけ人を集めたのはあれ以来ないな。
竹下先生の奥さんの弟さんが僕の中学時代の遠藤先生って恩師なんですよ。子どものころから竹下さんを知っていたんです、この人は将来の総理なのよと。いいおじさんで、「いい子だ、いい子だ」なんて言ってくれました。リクルート事件の竹下退陣までつき合いました。
■−本は読んでましたか。
石原-トム・クランシーが出たころでね、「これ読んだ? おもしろいよ、石原君」て他社の人が貸してくれて。待ち時間をつぶすのに読んでました。
■−杉並区を選挙区に選んだのは。
石原-三カ月くらいリサーチして歩いたんですよ。それで支援者ができなかったらやめようと。まあ若かった。今やれと言っても、やれないですよ。このままじゃだめだ、おれが変えてやるんだと結構まじめに考えていたんです。ところで今、僕がどんな本が好きか聞いてください。
■−今は、それで?
石原-浅田次郎が好きなんですよ。その前は、連城三紀彦も好きだつたんですね。『恋文』とかね。浅田次郎は天才ですね。本読んでいて、泣きますもん。泣けるのがいいですね。
■−政策新人類としてデビューした財政金融の知識見識はどうやって?
石原-三カ月間、歩いたときに会った人のおかげなんです。木場の材木屋の長男なんです。跡取りだってちやほやされてきたけれども、あるとき反発して阿佐ヶ谷に釆て朝日新聞の販売店をやっていたんですよ。あんたも親と同じに教育とか外交なんかやっても、絶対かなわないと。それなら何ができるか。大蔵省を担当していたとき税はおもしろいなと思っていた。都会は公共事業でアピールできませんからね、さてサポーターに御恩返しできるのは何かと考えて、じや税制をやろうと。
■−父上の思想と伸晃さんの思想は同じですか違うんですか。
石原-僕は自民党の中でも、真ん中よりちょっと左かな。父親は真ん中より三つぐらい右じやないかな、一番右じゃないですけど。父親の場合は、共産主義、マルクス・レーニン主義からの決別みたいなものがあるけど、我々は右に行く要素ってないもんね。豊かな社会で右翼を見たってアナクロでしょう。共産主義の人たちも何言っているのかわからない。やっぱりその人の歩いてきた歴史によるんじゃないですか、それによってポジションができていくと思いますね。
□対談後記□
二〇〇〇年総選挙で自民党が敗れた東京で石原伸晃氏が勝ち残ったのは、やはり次代を担うにふさわしいシャープでたおやかな感受性のゆえであろう。フランス文学から西鶴、少林寺拳法に通じる氏の精神世界は二〇世紀の大イデオロギー政治からしなやかに抜け出でいる。この「自民党の明日を創る会」のリーダーは、いうまでもなく父慎太郎、おじ裕次郎とは別個の政治的個性である。 (早野)
