政策新人類が永田町を変える

国民の政治離れ、政治不信が高まる一方で、自分のルートで現実を把握し、自ら政策を立案して行動するタイプの政治家が注目されている。 その代表格が石原伸晃。新しい時代にふさわしい日本の未来を石原はどう見ているのか。

”金融国会”で頭角を現し、表舞台に

石原と言えば、都知事の慎太郎がなにかと話題だが、長男の伸晃も近年にわかに存在感を増している。それは九八年夏に金融再生関連法案をとりまとめてからだ。
当時、大蔵省は護送船団方式を捨てきれず、銀行の不良債権処理を先延ばししていた。そういうときこそ政治家が泥をかぶってやるしかないのだが、護送船団時代に役所の振り付けで動いていた長老議員たちは、役所が筋書きを書かなければ何もできないし、もともと泥をかぶる気もない。
そこで、まだ当選三回の石原に自民党の金融再生トータルプラン推進特別調査会事務局長のボス卜が回ってきた。前年の九七年秋に拓銀、山一が市場に追い込まれて破綻し、次は日債銀、長銀と、うわさされ、日本発の金融恐慌がいつ起こるかと心配きれていた九八年五月末のことである。
九七年秋からの日本の状況を、恐らく後世の史家は平成金融恐慌と名付けるだろう。パニック的な取り付け騒ぎこそ起きていなかったが、静かな取り付けは各地で起き、都銀、地銀、証券、生保、ノンバンク、破綻した金融機関は数知れない。石原らがまとめた金融再生法案が間に合わなければ、長銀、日債銀の国有化による事態収拾が間に合わず、事態はどうなっていたかわらない。
九八年八月、橋本内閣の後に発足した小渕内閣は金融システムの安定を最重要課題として、金融安定化特別委員会を国会に設置。ここを舞台に自民党の石原伸晃、塩崎恭久、民主党の仙石由人、枝野幸男など政策に明るい与野党の若手議員が法案を練り上げて決着をつけたのだ。この過程で石原は一気に注目され、政策新人類などと呼ばれるようになったのである。

自ら立案した政策を自分の言葉で力説するのが石原のスタイルだ。 毎年、予算編成が終わると石原は駅頭に立つ。
しかし、正直言って石原が金融問題で頭角を現すとは意外であった。いったい石原は、いつの間にこれほどの政策立案能力と政治力を身につけたのか。
「当時の幹事長や政調会長にも言われましたよ。実務レベルのペーパーを枝野君と作ったとき、君はいったいいつこんなことを勉強していたのかって。縦から読んでも横から読んでも私らにはわからんと。でも僕は、党の財政部会長を二期やっているし、初当選したときから大蔵委員ですから」
石原は、ごく当然のことのように答えた。
全くてらいも偉ぶったところもない。拍子抜けするほどさわやかな好青年のままである。
父親が作家で政治家、叔父が戦後日本を代表する大スター、どこに行っても偉大な父と叔父が付いて回る。なにかと比べられ、またチヤホヤされて育てば、どこかしらゆがみが出てくると思うが、それが全然感じられない。
「いや、僕は自分を作らないんですよ。うちは、父もおじさんも地のままなんです。渡哲也さんや舘ひろしさんもそうです。虚像を作って、取り繕っても疲れるだけでしょ。だから、ざっくばらんで、作らないんです。子供のころからよく言われましたよ。『お父さんとおじさんがいて大変でしょ』って。いや、別にと答えてきました。だってしょうがないじゃないですか。変えようもないんだから。僕は僕だし、そこは達観していました」
驚いた。他人にどう思われているか、あまり悩んだりしない、日本では珍しいタイプのようである。といって、他人に無関心とか、ひたすら自己中心的というのでもなさそうだ。
「人と会うのは好きですよ。だから選挙活動は苦になりません。毎年予算が成立すると、街頭で演説しますけど、反応が年によつて違うのがおもしろいんです」
なんとも政治家向きの性格だ。

単なる”憤太郎の息子”でも”
裕次郎の甥”でもない才能の持ち主

石原は五七年四月一九日、石原慎太郎の長男として生まれ、神奈川県の逗子で育つ。小学四年生の時に、父親が参議院全国区でトップ当選し、それをテレビや新開で見てカッコいいと思い、「自分も政治家になる」と作文に書いたという。
選挙は家族総出でやるのが日本の常識なので、石原も高校生になると、父親の代わりに選挙区だった伊豆七島の後援会などにあいさつに行った。
大学は慶応義塾大学文学部で専攻は都市社会学。一年間ニューヨーク・エルマイラ大学に留学し、人間生態学を学んだ。
「僕は人間が好きなんですよ。人間観察が趣味ですから」
八一年、日本テレビに入社。警視庁記者クラブを振り出しに記者生活に入る。警察担当の時には有名な「ロス疑惑事件」が起きて、ロスから衛星中絶でレポートを送った。次いで運輸省、大蔵省など官庁を担当してから、官邸担当の記者となった。
「運輸省担当の時は日航機の御巣高山墜落事故が起きて、国鉄の分割民営化もありました。政治部になると、安倍、竹下、宮沢三氏によるポスト中曽根の後継総裁争いがありました。それから、消費税国会、リクルート事件が起きて、政界再編の大激動の時代に入ったんです」

スポーツを愛する石原。

この日はJリーグのFC東京の応援に駆けつけた。「最近は忙しいので…」と言いながらも少林寺拳法の道場に足を踏み入れると気合いが入る。
石原は、いずれは政界にと思っていたが、まだ先のことと、自分も周囲も考えていた。とろが盤石と思われていた竹下内閣が崩壊したことで、突如立候補を決断する。
「竹下さんが、ポスト中曽根の後継総裁に意思表示をしたパーティでの演説を取材してたんですよ。竹下さんは、いつでも物静かな人なんですけど、あの時はおおぜいの参加者を前に体を震わせて演説した。メモを取りながらすごいなと思いました。総理・総裁を取りに行くというのは、あの竹下さんが全身を震わすほどすごいことなんだと」感じました。でも、それですぐ選挙に出ようと思ったわけじやありません。だって、竹下内閣は、ライバルだった安倍さんが幹事長になって、安竹で手を握って万全だった。佐藤内閣以上の長期政権になるだろうというのが常識でしたから」
つまり、自民党長期安定政権の下で一年生議員になったとしても、先輩議員が上につかえていて、政治家として影響力を発揮できるようになるには何十年もかかるので、あまり魅力を感じなかったのだ。
ところが、国内にあってはリクルート事件による竹下内閣の崩壊、海外ではソ連崩壊で供界の政治構造の激変などが重なった。
「これは、本当の激動期が来ているのではと思いました。激動期で政治・経済の枠組みが変わるなら僕ら若い者でも何かできるんじやないかと思ったんです。父は、もうちょっと様子を見たらと言いましたが、今だと決断しました」
政治家石原伸晃を考えるにあたって、ここのところは重要である。自民党も野党も、今は二世議員ばかりである。石原も父親が政治家なのでその意味では二世議員だが、親から後援会、選挙地盤、資金源などをそっくり受け継いだ丸ごとの二世議員ではないのだ。

埼玉・飯能の河原で
川に向かって演説の練習

父石原慎太郎と叔父石原裕次郎のネームバリューはとてつもなく大きいが、選挙区での組織・人脈作りは一から始めたのである。
「選挙区は、おやじの東京二区以外ならどこでもよかったんですが、応援してくれる人がいて、女房が杉並区出身だったので、旧東京四区にしました」
初めて立候補した九〇年当時はまだ中選挙区制で、四区は、渋谷区、中野区、杉並区で定員五という広大な選挙区である。
「いやもう三か月間、ひたすら歩いて、街頭で演説しました。最初の後援会長をやってくれた人が、お前のはニュースの原稿を読んでるみたいでダメだと言って、演説のやり方を教えてくれましたよ。飯能の河原で、せせらぎの音に負けないように声を出すんだと」
石原は細い体に似ず声は大きい。しかし、演説に足を止める人は少なく、いつか、通行く人を立ち止まらせてやると、あきらめずに演説を続けた。地元出身でもないし、自民党の公認もない。やれることは演説くらいしかないのである。
訴えたのは、政治改革。政治を変えよう、改革には若い力が必要だ、ということ。リクルート事件の後だけに、自民党の公認が取れなかったのがかえって無党派層に受け、大方の予想を裏切って、二位で楽々当選した。石原軍団の力が大きいが、石原自身が地道に演説して歩いたので、地元に認知されたのだろう。

若手の研究家と熱心に意見を交わす。
こんな時間を石原は大切にする。地元の商店街を歩けば、
気軽に声をかけられる。
初当選した石原は、大蔵委員になる。
「おやじと同じことをしちやダメだよ、とアドバイスしてくれる人がいましてね。僕もそう思ったから、父が得意とする外交、教育は避けて、税をやることにしました。僕は性格が細かくて税には向いてるんです」
国民生活に直結する国政の二本柱は、税と予算だ。しかし東京のような都市は、地方と違って国の公共事業を獲得するなどということはほとんどできない。したがって東京選出の議員には予算で活躍する余地がほとんどない。だが税は、都民だろうと地方の県民だろうとすべての国民に関係し、東京選出の議員にも活躍する余地がある。また、税制は票にならないし難しいと敬遠する議員が多くて、上がつかえていない。石原が自分の分野として税を選んだのは大正解だった。
が、しかし。九三年に自民党が分裂して野党に転落しなければ、石原もこれほど早く表舞台に登場することはできなかっただろう。
野党に転落して自民党の政治家たちはすっかり元気をなくした。予算は既得権と政治力の世界なので、政権から滑り落ちたら影響力がなくなる。つまり大半の自民党議員は、やることがなくなった。
これに対して、税制は論理と公平中立の世界なので、政治力で顔を利かして自分の選挙区だけ減税するなどということはできないかわりに、勉強すれば野党でも論理で切り込むことができる。
さらに野党に転落して党として危機感が芽生え、若返りを図る機運が出たことも大きい。
「それまでは、党税調などでは一年生議員などは発言もできませんでしたが、野党になってからは、一年生であろうと、いい意見なら開こうという傾向になりました」
石原はここで、一般受けを狙って外交ではでなパフォーマンスをしたり、新党作りなどで軽挙妄動せず、じっくり政策を勉強していた。そして税、財政、金融へと地味ではあるが政策の幅を広げていった。
「野党時代の九三年のころは大蔵委員会で税制改正について質問したのは僕と共産党くらいしかいませんでした。大蔵省の主税局長(小川是、後に大蔵次官)とだいぶやりい合いました」

自分の足で人脈を広げ、
政治家としての力をつけていく

野党なので官僚からあまり相手にされず、石原は民間の専門家や学者と勉強会を開き人脈を広げる。そして九四年七月に、まだ二年生議員でありながら党財政部会長に抜擢された。
折から自社連立の村山内閣が成立し、自民党は与党に返り咲く。自民党単独政権の時ほどの影響力はないが、与党の部会長となればキャリア官僚も無視はできない。石原はこの財政部会長を二期、九六年十一月まで務め、消費税率の五%引き上げなどにかかわって実績を積んだのだ。これによって、党内的には若手財政通としての評価を確立し、政界においては、父慎太郎とは別個の政治家として地位を確立したのである。
その後の活躍は冒頭に書いたとおりだ。立候補前に激動期なら若いほうがチャンスはあると読んだとおりの展開になったのである。
石原は九八年七月の自民党総裁選で、小泉純一郎擁立に奔走した。小泉の所属する三塚派(現森派)は小泉で一本化せず、石原は他派の若手議員に声をかけて立候補に必要な推薦人をかき集めた。結果は、小渕恵三が梶山静六、小泉の両候補を退けて自民党総裁の座につく。
都内の移動にはもっぱらハイブリットカーを使う。石原はこれを契機に三塚派を離脱した。小泉擁立と派閥離脱の経緯を、中央公論(九人年一二月号)にこう書いている。
−私はあの時、正直言って、小渕さん以外なら誰でもいいと思ったんですよ。小渕さんというのは人柄は素晴らしい。だから間違いなく平時の大宰相ですよ。あんなにお団子を食ペるのが似合ったり、子どもと横断歩道を歩く姿がほほえましい人はいないです。そしてすごくシンが強い方なんですよ。でも、この金融の危機みたいなものに対して決断できるのは、わかった人じやないとダメなんですよ。
だから私は小泉純一郎さんを担いだ。小泉さんを担いでいる最中に、いろんな政治のやりとりがあって、小泉さんを出させて彼を潰そうという動きがある。それは梶山さんの足も引っ張るということが分かったから、私は私より若い他派閥の人たちにお願いした責任を感じて派閥を離脱しました。
小泉さんか梶山さんみたいに、金融の分かっている人が短い期間で問題になっていることを一掃して、平時が来て小渕さんにバトンタッチすれぼ、全然この国は違ったと思うんです。−
これは、石原らがまとめた金融再生関連法案が間に合って、小渕政権がスタート直後の難関をなんとかしのいだころに書かれたものだ。これでは、まだ石原が派閥を離脱した本当の理由はわからないが、小渕についてはずいぶんハッキリと物を言っている。また単なる政策通というだけではなく、政界の仕掛け人としても独自に動くだけの才覚があることもわかる。
 今のところケレン身のないさわやかな風貌と言動 政策能力が売りだが、政治的にもしたたかな実行力を秘めているようだ。
現在、石原は加藤絃一の宏池合に籍を置いている。自民党の派閥のラインからすると意外な選択だ。
「後援者からも、何でって言われます。でも加藤さんとは政策を話していていちばん意見が合うし、なぜか気も合うんです」
確かに政策的には意見も合うのだろうが、やはり次は加藤の時代だと見ているからだろう。小渕が病に倒れ、竹下の引退も決まり、九〇年代を支配した竹下・経世会の弱体化は必至だ。小渕内閣をそっくり受け継いだ森も、選挙で圧勝しなければ、続投はおぼつかない。
加藤を担いだ石原が、政局をリードする日が意外に早く来るかもしれない。

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